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書評:フリスク『ゆっくりまわっていくようだ』

26.08.16 ・ 24 分で読めます

はじめに

皆さん、ごきげんよう。紅坂篤樹です。 本日は、突然ですが、書評を書こうと思い立ちましたので、公開します。 ネタは、フリスク氏の執筆された、『ゆっくりまわっていくようだ』です。 では、さっそくどうぞ。

注意

と、その前に、一点だけおことわりしておきます。 紅坂がこの先の書評において用いる「本作品の作者」は、実際の作者であるフリスク氏とは分離された、仮想的な存在を想定しています。 分析美学で言うならば、「仮定された作者の仮説的意図主義」の立場1を採用して、以降の書評が執筆されています。 特記なき限り、紅坂の批評は、実際の作者であるフリスク氏に向けられたものではありません。 以上を念頭に、書評をお読みいただければと思います。

書評

きっかけ

筆者は本作品を読む数週間前、本作品の切り抜きにあたる、『無題:カムパネルラはかく語りき』を拝読していた。 即物的かつ記号的な P ドル小説を楽しまない筆者にとって、このような文学を志向した二次創作は、たいへんな好物である。ゆえに筆者は、喜んで飛びついた。 しかし、拝読した際は、確かに光るものはあるが、俺は好みじゃないかな、などと考えていた。それゆえ、当該作品には、いいねもブックマークもつけなかった。 ところがその後、学マスへの批判を Twitter において検索していた際、フリスク氏の次のような投稿が目に留まった。

別にことねのSTEP4来なくてよくない?これ以上シナリオが悪くならないなら ―― https://twitter.com/tachyon__love/status/2086830538527310041

当時、雨夜燕 STEP3 の出来に心底失望していた筆者2は、この意見に強く共感し、それからフリスク氏の投稿を漁った。 その際、またしても筆者の目に留まったのは、次のような投稿であった。

ちょまじでおれの生前最後の願いでもあり一生のお願いでもあるんだけど『ゆっくりまわっていくようだ』読んでくれや おれの学マス観すべてが詰まってるって言っても過言じゃないショウセツなので てかおもろい 最後の東海道線のくだりだけでもおもろいし、上げてる切り抜きの部分だけでもくえるよ ―― https://twitter.com/tachyon__love/status/2086833644392595893

投稿漁りを通じて、筆者は、フリスク氏という人間に興味をもっていた。その人間の願いであるのだから叶えてやらねば、などという自我肥大のようなことを考えつつ、一念発起して 81,002 字の小説を読破する決意をした。 かくして筆者は、品川駅において乗車した東海道本線・普通列車の熱海行の車内から、所用で向かった富士市某所のホテルに着くまでの間、合間合間に読み進めたのであった。

鈴井の登場まで

主として筆者が書評の対象としたいのは、中盤に登場した鈴井と藤田とのやり取りが描かれた可能世界以降であるので、そこまでの書評は割愛させていただく。 あえて言うならば、何だかニーチェの永劫回帰思想のような話だなあ、などと考えながら読んでいたことは補足しておく。

ペルソナ

さて、その鈴井と藤田の対話まで読み進めた筆者は、鈴井の発した次の一節を読み、次のように感動した――

そんな膜を引っ剥がされるって、塞がりかけのかさぶたをいっぺんに引き剥がすように、痛みを伴うものだと思いませんか?それこそ、全身の皮膚を剥がされるような……

―― ユングやん! と。

筆者はユング心理学を嗜んでおり3、物語を読み書きする際は、しばしばユングの提唱した概念を軸に据えている。さて、この一節が何にあたるかと言えば、他でもなくペルソナと自己との関係である。 筆者はすでに『配信と背信、穢れし茉莉花《ジャスミン》』における姫崎莉波によって指摘したが、すべてアイドルはペルソナを被っている。問題は、そのペルソナが自己との境界線を失って、固着してしまった時に生ずる。 さて、当該作品の投稿日は、05/27 である。勘の良い方ならば、この日付と莉波という前提から推論できると思うが、この小説は、他でもない例の大きな炎上騒動の際にメタフィクションとして執筆したものである。 当該作品における莉波は、「みんなのお姉ちゃん」というペルソナを貼られ、固着してしまった。結果として、そのペルソナが使い物にならなくなってしまった際、引き剥がして新たなペルソナへ付け替えるにあたって、相応の痛みが生じた。 さて鈴井は、アイドルを引退した藤田に対して、その痛みがなかったのかを問うている。藤田はそれに対してもう一枚の膜があると対え、鈴井は納得する。 しかし、考えてもみてほしい。引退してからというもの、

  1. もう一枚の膜も剥がす
  2. 一生固着したまま生きる

という二択のいずれかを選ばなければならないことを、鈴井は忘れている。それこそが、野球選手と結婚したり、女優に転身したりした可能世界などにおいて、藤田が苦しんでいた原因であろう。ファンは幻影を追いかけなくなるかもしれないが、自身が幻影に苦しむことになるのである。そう、ちょうど無限に広がる螺旋回廊の真ん中において、若き頃の幻影と対峙した藤田のように。

愛の責任

重い、軽い以上に……愛には責任が伴うんですよ

藤田に対して鈴井はこう言い放つが、筆者としては、鈴井の言う「愛」が、哲学的な意味での「愛」ではないように思われた。 彼の言う「愛」は、ギリシャ的な「アガペー」「エロース」「フィリア」「ストルゲー」いずれでもなければ、キリスト教 (ないしはトマス・アクィナスとも言えるか) 的な「愛」amor でもない。まして、東洋的な「愛」では、もっとない。 では、何なのか。私は「愛」ではなく、ユングにおける「投影」ではないかと解釈する。 偶像《アイドル》とは、何か。それは即ち、ありとあらゆる投影を一身に受け止める存在である。それは、私生活とて例外でない。片時も投影から逃れることのできない存在、それこそが偶像《アイドル》であると言える。いや、逆説的に、他の職業であったならば私生活だけで良かったはずが、仕事としても投影を受け止めなければならない存在であるとも言えるだろうか。 鈴井もまた、交際しているアイドルに対して、何らかの投影をしているのであろう。であるからこそ、投影を “ させてもらっている ” 責任、そしてその投影を引き戻す責任がある。それこそが、鈴井の言う、「愛の責任」なのではないだろうか。

主観・間主観・客観

でも、かわいい、ってことに客観なんてないじゃないんですか。かわいい、とか、かっこいい、とか感じることって、すごく自分の中で起きるもので、主観的ですよね。

続く有村と藤田の対話の場面において発せられたこの一言に対して、筆者は違和感を覚えた。 客観とは、きわめて難しい概念である。少なくとも、単数であれ複数であれ、人間の個体に宿っているとされる意識に関係する時点で、客観性は担保されなくなってしまう。であるからこそ、神学においての客観性は神であったし、こんにちの科学哲学における客観性は、反証可能性であるとされている。 しかし一方で、かわいいという感覚が完全なる主観にのみ立脚するかと言われれば、そうでもないように思われる4。 そもそも、「かわいい」とは何なのか。大別して、二つの種類の「かわいい」が存在していると考えられる。

  1. 生物の遺伝的な本能としての「かわいい」という感覚。e.g. 赤ちゃんの顔を見た際の、守りたいこの笑顔という感覚。
  2. 後期ウィトゲンシュタインにおける言語ゲームにおいて、共時的に通用する感覚。e.g. 藤田ことねを見た際の、「かわいい」という感覚。

このうち 1. は、生物学的に同定可能な個体同士において、間主観的なものであると考えられる。 一方の 2. について、前提として、100 年前くらいのヒト個体に対して藤田ことねを見せた所で、「かわいい」という感覚を抱くとも限らない。であるからこそ、“ 共時的 ” という限定が必要だったのである。これならば、間主観性は辛うじて担保できる。 つまり、ここで有村が言う「客観」とは、意味論的には「間主観」のことである。決して、(神が存在するとして) 神が藤田ことねのことを「かわいい」と思ったとか、そういう話ではない。 この後にも『客観的に見て藤田ことね』という表現が登場するが、これもまた「間主観的に見ても」という意味で用いられていると思われる。 なお、「客観的」な「藤田ことね」とは何なのかについては、religare の章において後述することとしたい。

物語と嘘

観客だけが嘘を嘘のまま受け取る。嘘に相対して、観客は「嘘の感動」を抱いて出てきてるから、なんもしない。てゆー感じ?

筆者は、白倉伸一郎の思想に強く共鳴している。この一節を見た際、白倉の次のような思想が脳裏をよぎった。

基本的に物語は嘘なわけです。子供ならいざ知らず、大体の人は物語を嘘だと分かっていて、嘘を受容している。

では何故その嘘を好むのか。それは人間の頭が物語を求めているからです。そこで求められる物語は辻褄や、理屈、設定ではありません。そもそも嘘なのだから嘘に辻褄があったとしても、よくできた嘘、理屈っぽい嘘でしかない。 ―― https://coki.jp/article/voice/68203/

物語はしょせん「嘘」である。我々はその「嘘」に対して、何も行動を起こさなければ、傍観者以上の意味はもち得ない。傍観者であるから、無思考・無批判に甘受することもできてしまう。ソシャゲはその最たる例であり、批判的思考を忘れた豚共がエロ売り拝金主義に屈して、今日も今日とてブヒブヒと鼻息を立てている。フリスク氏に言わせれば、ことみすなどというカップリングを持て囃しているとも言えるかもしれない。 では、我々はその「嘘」に対して、どう向き合わなければならないのか。確実なのは、「主体性」が求められる点であろう。確かに我々は物語に対して客体でしかないが、それは受動的な鑑賞をして良い理由にはなり得ない。逆にここで、能動的な鑑賞とは、このように書評を書いたり、あるいは感情移入をしてみたり、とにかく観るだけに留めない努力のことを指すこととしよう。 出典元が見当たらなかったのだが、恐らく白倉だったかが、『物語において唯一本当なのは、人間であること』であると言っていたような気もする。即ち、草加雅人や、オルフェノクである木場勇治でさえも人間なのである。草加のようなドロドロの執着は、我々にとっても無縁なものでない。そのことに気づいて、草加に共感できた暁には、晴れて無思考・無批判な客体から脱出という寸法である。 困ったことに、学マスを含む昨今のコンテンツは、そのような人間の黒い部分の描写を、意図的に避けているように思われる。観ていないからエポケーするが、『超かぐや姫!』も、そのような批判をされていたような気がする。「人間の立脚点」としてのコンテンツの質が問われるであろう。 あえて言うならば、ことみすは、そのような黒い部分の発露という点において、最高に濃い出汁が取れそうな題材であると筆者は考える。

価値と価格

この感動がこの値段で!みたいなのって、それはそれでお得な気分になるんでしょうが、行き先はより安価なところで、何か本質的なものが失われる気がするんです

筆者は、学マス運営の拝金主義を再三批判している。とくに、アナザーアイドルという概念をもっとも嫌っている5。ちょうど最新作の『P「雨夜さんの顔見たら腹立ってきた」』においてもまた、そのような内容を書いた。 その中において、プロデューサーは次のようなことを言っている。

もっともわかりやすい価値の可視化ではあるが、しかし、内在する真なる価値ではない

この点において、本作品の作者と筆者の主張は、一致しているように思われる。 先般、“ 9 万円のショボい演出 ” で学マス運営が炎上した。 このような値段による価格づけの問題点は、

  1. 内在的な価値をもたないものについて、あたかも価値があるかのように見せかけることができてしまう
  2. 内在的な価値をもつものについて、その価値を可視・定量化することによって、強引に語り得るようにしてしまう

の二つに集約されるであろう (学マス運営の今回の事例にあっては、1. をやってしまったがために批判されている) 。 もっと身近な例で考えよう。我々は本を買う。しかし、買うだけ買って満足してしまい、たいていの本は読まない。これは、価格という可視的な代償を支払い、本を所有すること自体に「価値がある」と思ってしまうからである。しかしそのことは、その本がもち得た内在的な価値にはまったく寄与しないどころか、むしろその観測を阻む点において有害である。作中では感動の価値を強引に語り得るようにしてしまうこと (2.) を問題視していたが、我々はそもそも、感動まで到達しない場合すらあるということである。 逆説的に言えば、基本的にそのようなものとは無縁である二次創作 Web 小説として本作品を投稿する行為そのものが、価格によって内在的な価値が矮小化されてしまうことに対する強烈な対抗策であると言えるであろう。

religare

もしもかみさまがいてくれたら、あたしとそれ以外を分別してくれるのに

こんにちの日本において、religion の訳語は「宗教」であるということになっている。これは、西周が半ば強引に作り出した歪な訳であり、我々は異なる起源をもつ二つの概念を、同一の上位概念を指す語として無自覚に扱っている。しかし、「宗教」概念は、必ずしも自明でないのである。 さてでは、キリスト教的な religion の語源は何か。神学において主流派である所のルクレチウス説では、religare (再び re- 結ぶ ligare) であるということになっている。 キリスト教においては、神と信仰者との一対一の「契約」が重要視される。したがって、キリスト教的な神の視点に立てば、「藤田ことね」は「藤田ことね」以外とは分別されるはずである。 しかし、ここで困ったことが起きる。「藤田ことね」を定義するには、「藤田ことね性」という抽象的な形而上の概念が実在することにしなければならない。なぜならば、作中でも触れられていたように、「藤田ことね」という生物が、細胞レベルでは 1 ヶ月で別人になってしまうからである。それゆえ、その生物を「藤田ことね」たらしめている、「藤田ことね性」が必要とされるであろう。そして、「藤田ことね性性」、「藤田ことね性性性」、……と、無限後退が発生してしまう。そう、まさしく、中世スコラ神学やインド論理学で長らく取り扱われてきた、普遍論争の再来である。 こうなると、無限後退を回避するために、「藤田ことねでないもの」を列挙することで、「藤田ことね」を定義したくなる。そう、マイスター・エックハルトらが用いた否定神学の手法であり、また仏教徒における抽象概念の定義の手法である。 たとえば赤髪は「藤田ことね」でない、深い青髪は「藤田ことね」でない、最終的に金髪おさげが残った、といった具合である。 こう考えれば、「藤田ことね性」という概念は考えずに済む。すべての事物は、他の事物の補集合として定義することができるようになるからである。 であるからこその――

神様はきっと、藤田ことねに関するすべての事実を知りうるでしょうし、決定しうるでしょう。でも、だからこそ、否定したいんですよ

――なのであろうと考える。

語り得ぬもの

アイドル目指した理由がさ、お金だけだったらどんなに楽ちんだったか、と思うんだけど、ほんとうの理由が今のあたしには言葉にできないの。

前期ウィトゲンシュタインの著作である所の『論理哲学論考』には、あまりにも有名な、次のような一節がある。

語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。

今や哲学の無価値さを主張する際に不用意に援用されるレトリックと化してしまったこの一節であるが、肝心なのは、さらに次の一節なのである。

語り得ぬものは、示される。

我々は、日々何かを知覚している。まさに今筆者が執筆しているのは、本作品を鑑賞して感じたことの言語化である。しかし、この言語化は、筆者が感じたことのすべてでは到底ない。 美術館において、何か有名な絵を観たとしよう。とりあえず、ムンク『叫び』にでもしておこうか。その時、描かれた表情や姿勢、背景などから、読者諸君は何かを知覚せずにはいられないだろう。しかしそれを言語化しようとした瞬間、その感覚は言語の檻へ閉じ込められてしまい、矮小化されてしまう。 藤田ことねは、アイドルを目指した理由がわからなかった訳ではない。言葉にすれば矮小化されてしまうから、語り得なかったのである。 であるからして、語り得ない理由は、確かに存在しているのである。

シャドウ・秦谷美鈴

ですから、その後悔は確かに『成れなかった自分』の『助けられなかった出来事』に対するものであって、もしかしたらもっと明るい未来を得られたかもしれない、という分岐への欲望。

フリスク氏は、藤田ことねと秦谷美鈴のカップリングをひどく嫌悪している。筆者は門外漢なので、その是非についてはエポケーするとして、であるからして藤田と秦谷が対話するこのシーンは、きわめて異質なものとして映る。 さて、本作品の作者は、秦谷を藤田のシャドウとして描きたかった、あるいは その逆であろうと推論した。ユングにおけるシャドウとは、「成れなかった自分」である。何ということであろうか、作中そのままである。藤田にとって秦谷がシャドウであることは作中から明らかであるし、その逆についても、公式および本作品における月村手毬をめぐる問答を踏まえれば、成立していると推論して良いものであろう。そのせいか、互いに嫌悪が滲み出ている。 しかし、少なくとも秦谷は藤田というシャドウを統合し、旅立っていった。本作品において、秦谷は「自己実現」をして、救われていったのである。

充足理由律と自由意志

さて、秦谷と藤田との対話の箇所について、筆者が受講していた大学の某講義で取り上げられてからというもの、筆者が度々引用している文章に登場願おう。 中島義道『後悔と自責の哲学』である。

執拗な後悔を通じて、彼 (女) は「あのとき」の行為が A と記述され、そのうえで自分が A と非 A とを選択する場にいた、という安直な図式に抗議しているのです。A を選んだことに対して後悔する人は、たしかに「あのとき」A を選ばないこともできたはずだというかたちで後悔しますが、その底には A と非 A という二項対立に対する疑念が渦巻いている。「あのとき」なぜ自分が A を選んだのか正確にはわからないからこそ、そうでないこともできたはずだという思いに揺さぶられる。

中島はこの後の箇所において、ここにおける “ 自分 ” が充足理由律を直観していると説明している。ライプニッツの充足理由律とは、近現代科学が採用している機械論的因果律の抱える無限後退の問題を解決するための一つの手法であるが、まさに――

でもそれって、『それしか道がない』と思ってた不自由なあたしと矛盾するでしょ

――を説明するものである。 充足理由律に従えば、すべての事象は、微小表象が蓄積した結果、必然的に発生したものなのである。 このように、きわめて決定論的であるからこそ――

後悔することが、あたしにとって信じられることなら、そこには自由なあたしを想うことができると思うんだ

――と、藤田は、後悔に自由意志を見出すのである。

開かれた物語

観客が観る月村手毬の物語はそこで終わるのかもしれない。けど、あたしの知る月村手毬の物語はまだ続く。そして、月村手毬の知る月村手毬の物語は、無限に広がっていることも知ってる。

この一節は、実に多義的な意味をもつ。考えつく限りでは、次の三つが挙げられる。

  1. ソシャゲという、終わりのない物語に対する批評。
  2. 二次創作という、無限に広がる可能世界に対する批評。
    1. および 2. に乗る形で作られた本作品に対する自己批評。

まず、1. について。ソシャゲはサ終しない限り、物語が続く。しかし、新たな物語が追加されるまでの間、ニーチェの永劫回帰もビックリなデジャヴの繰り返しが待っている。ちょうど、シャニマスの「円環」において提起された問題である。これは、藤田が作中においてデジャヴを感じたことと同じであろう。 次に 2. についてであるが、これは、二次創作者が単なる「観客」、即ち客体に留まっていないことを示唆している。二つ目の「藤田ことねの知る月村手毬の物語」に相当し、可能世界における「観測者」と言った方が良いかもしれない。 そして 3. であるが、これは、メタ的に本作品の構造を描き出している一節である。ここまでに読者は、「観測者」としての藤田が、いくつもの可能世界を観測する様子を見せられてきた。それが夢であれ何であれ、無限に広がっていることは確かである。しかも、無限に広がっていてかつ、永遠に繰り返すのである。そうしてデジャヴを感じながら、半直線的に開かれたエンディングへ向かっていくことを繰り返す。 卵が、ゆっくり回り続けるように。

不連続な世界

ところで、我々の世界は、本当に連続性を保っているのであろうか?素朴実在論的には保っているのかもしれないが、実は不連続なのではないか? 仏教には、刹那滅という概念がある。アビダルマにおいて顕著であるが、我々は一刹那毎に滅び、また一刹那毎に別の我々になることを繰り返すことで生きているというものである。ちょうど、我々の身体が、1 ヶ月ですべての細胞が入れ替わるテセウスの船であるように。 また、そもそも、「私」とは何だろうか?そんな実体は存在するのだろうか? 仏教は無我である。バラモンの教義と異なり、アートマンのような実体は存在せず、自我はすべて法 dharma の生み出した仮の集合体であるという立場を取る。 であれば、私はあなたであり、あなたは私である。私は藤田ことねであり、藤田ことねは私である。私は蝶であり、蝶は私である。即ち、胡蝶の夢である。 それが今の「私」に近いか遠いかは、さしたる問題でない。あの可能世界において生きていた藤田ことねは、例外なく、藤田ことねだったのである。

固有名詞と実在性

ところで、この作品には、やたら個物的な固有名詞が登場する。 東京ドーム、西武園ゆうえんちおよび西武山口線 (レオライナー) 、熱海および東海道本線、等々。あとはメッセンジャーや才木浩人もそうである。 筆者は西武池袋線沿線に在住しているため、親近感を覚えずにはいられないのだが、なぜこのように固有名詞を連発するのであろうか。 筆者も、個物的な固有名詞はしばしば用いる。ここまでに野辺山秩父月夜野長岡 あと山岡家 を用いた。 このようなものを用いる時の意図としては、実際の作者 (つまり紅坂自身やフリスク氏自身) が体験したクオリアをもとにやたら詳細な記述をすることによって、本当は実在しないアイドルがあたかもその場に実在していたかのように見せかけることができるから、というものがある。 我々は、雨夜燕やら藤田ことねやらといった情報生命体が本当は実在しないことを知っている。しかし、しょせんは嘘だとわかっていながら、なおもその物語を信じるしかないのである。 土地というのは強烈な力をもつもので、登場させるだけでコンテクストをつけることができる。熱海は、都心から 2,000 円で行ける温泉地という、定量的なコスパの指標として用いられた。また筆者は、月夜野において武田・真田の物語、長岡において直江の物語をアイドルへ引きつけて論じた。 このように、実際に我々が知覚可能な「本当」のコンテクストを、あえて物語という「嘘」へ練り込むことによって、「嘘」にほんの少しだけ「信仰」が芽生えるのである。これは恐らく、旧約聖書のような時代から繰り返されてきた行為であろう。そう、ヤハウェなどという本当は実在しないかもしれない神を「信仰」する物語のように。 これこそが、本作品において指摘されていた、物語の作り手側における「本当」と「嘘」の境界の実践例であると言えるであろう。

むすびに

いかがでしたでしょうか。

ちなみに本作品は、紅坂としても、自身の作風をメタ的に認知するきっかけとして機能しました。 普段の紅坂の作風は、大量のパロディを記述するものであることは、読者の皆々様をしてはおわかりでしょう。 フリスク氏の作風とは似て非なるものではありますが、オマージュ元をほとんど知らない紅坂から見れば、普段の自分の作風はこのように読まれているのか!という、良い読書体験を得ることができました。 この素晴らしい作品を生み出されたフリスク氏に、最大限の賛辞を。 そして、本書評をお読みになられた皆々様におかれましては、是非本編をお読みいただければと思います。

藤田ことねも見たであろう、東海道本線の車窓から見える海

では、藤田ことねも見たであろう、東海道本線の車窓から見える海と共にお別れです。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました! 今後ともさまざまな批評を行う予定ですので、また、別の批評でお会いしましょう。


26.08.16 富士市某所にて、富士山を望みながら。帰りに熱海駅で降りたら追記するかも。

Footnotes

  1. 詳しくは、こちらのサイトをご確認あれ。

  2. なお、結果的に、筆者は『雨夜燕・シン STEP3』を執筆するに至っている。

  3. なお、専攻はインド論理学で、とくに仏教唯識派のものを主として据える予定。ユングと唯識思想には比較哲学的な共通項が見られるとしばしば指摘されている。

  4. 少なくとも、他我なり他のアーラヤ識なりの存在を容認する立場ならば。客観に言及している点からして、本作品の作者は独我論者でないという推論に至ったため、このような議論を展開することにした。

  5. 雨夜燕のアナザーアイドルの登場が嫌すぎて、ログインすらしなくなる程度には嫌っている。

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